奥手稲山の家の歴史
1930年に鉄道省により建てられた奥手稲山の家。
その歴史をここでは振り返ってみましょう。
建設から戦前まで
世界恐慌に伴う不景気で収入減に苦しんでいた札幌鉄道局は
スキー客誘致のための施設整備を企画。
当時あった、パラダイスヒュッテとヘルヴェチアヒュッテ(共に現在も北大所有の小屋)
を繋げることにより銭函駅などからの客が見込めることや、
秩父宮殿下も滑られたユートピアゲレンデもあることから、現在の位置に建てることが決まる。
奥手稲山一帯は御料林であったため、周囲一帯の木には手をつけないことを条件に建築。
木造高床式3階建て、総面積150平方メートル、
収容人数48人、最大80人まで可能の破格の大きさの小屋が完成。
昭和5年12月には完成し、昭和6年1月17日に正式な小屋開きが行われた。
当時は小屋番が常駐し、一泊50銭、休憩15銭で営業が開始。
頼めば食事も提供していた。
当時最も設備の整った山小屋で、銭函駅から小屋まで鉄道電話が引かれ、
屋根の上の照明により夜間スキーも楽しめた。
巨大な薪ストーブや炊事道具、寝具も完備されており、
小屋までの指導標も各駅から完備されていて、毎週満員御礼だったらしい。
北大への移管
戦後、道内各地にスキーリフトを備えたスキー場が作られ、
山スキーが急速に衰退するにつれて山の家の利用者も減少。
1960年代末に国鉄は合理化政策の一環として
営業成績の上がらない奥手稲山の家の処分をすることに決定。
北大に対して小屋移管の打診があり、
昭和46年3月24日に国有財産として正式に北大へ無償譲渡された。
移管後、奥手稲山の家の獲得を強く希望していた我が北大ワンゲルの手に小屋の管理が委託された。
それから現在まで北海道大学部ワンダーフォーゲル部による管理が続いているわけである。
修繕や改修
移管から数年後には建築後半世紀近く立っていることもあり小屋が傾き始めた。
昭和55年の調査の結果、予想外に多くの団体が小屋を利用していることが判明し、
北大学生部も小屋の重要性を認め、修築が行われることとなった。
だが、この修理によっても小屋の傾きの進行を止めることができず、
平成元年から大改修が行われることになる。
平成3年までかかった工事では、
土台部分の倒壊などにより部員に怪我人が出るなどのアクシデントもあったが
寄付金や、北大学生部からの資材援助により順調に進み、
合計50トン以上の資材を荷揚げし、土台部分の鉄骨化や外装の改修が行われた。
現在の小屋とこれから
大改修により、外装はきれいになったが、今でも中は建築当時の姿をとどめている。
暖房は薪ストーブから石炭に替わり、電燈も今はなく灯油ランプがその代わりを果たしているが、
良い小屋なことに変わりはない。
小屋番も、夏期隔週、冬期毎週入っており、
玄関にかかっている「奥手稲山の家」の表札は1978年卒部部員の記念品である。
無雪期は、夕陽の沢からの林道が整備されており、
初夏と秋には美しい新緑と紅葉が楽しめ、山菜の宝庫でもある。
積雪期は、手稲山961峰、送電線-迷沢山、奥手稲山、銭函峠、夕陽の沢
など多様なコースをとることができ、手軽にスキーツアーが楽しめる。
小屋の周囲には平成元年に部員によってとりつけられた指導標があるが、
現在はインクの色が消えていたり、無くなっているものもある。
奥手稲山の家の周囲には大きな美しいタンネとダケカンバが点在し、
ユートピアをはじめとするスロープもあり、動物や鳥なども身近に感じられる。
こんな小屋だが最近の山に入る人の減少、それに伴う山スキーの衰退、
などにより利用者数が低迷してきている。
法人化された北大の中には、このような小屋を手放してしまおうという人もいるらしい。
この素晴らしい小屋が人で賑わい、ずっと後世まで残ることを期待している。