応援団の歴史
○遊戯会予科応援団誕生(明治11年〜大正11年) 時は明治11年、札幌農学校時代に学生の身体を強壮にし、学内をより活発にさせる目的を以て遊戯会が創立された。遊戯会とは単なるスポーツ競技会ではなく、芋拾い競争、綱引き、石投げ、豚追い、仮装行列等の愉快な種目も含まれているものであり、大正11年に廃止されるまで、学内に活気を与える年中行事であった。これは各科対抗で行われ、ここに各科ごとに自然発生的に有志応援団が誕生した。これらの応援団がいつ頃発生したか定かではないが、明治四十年頃にはすでに存在している。 このころの応援は有志が応援リーダーを称して応援指揮を行うという形式であった。また、野次中心の応援だったため「野次隊」「野次団」とも呼ばれていたようである。この応援団は各科ごとに毎年応援歌を作ったり、白馬に乗って練り歩いたり、帯に剣を差して応援指揮をとったりと各科ごとに特徴のあるユニークな応援をしていたという。その応援のおかげもあってか、遊戯会は札幌市民も大いに関心を持ち、当時の札幌の全市的祭典とも言うべき行事でもあった。 この遊戯会の予科応援団(予科とは今でいう教養学部のようなもの)の存在が北大応援団発足の原点となる 。
○北海道帝国大学予科応援団発足(大正11年〜昭和2年)
遊戯会が廃止され、遊戯会予科応援団も消滅したが、早くも同年中に高商戦 現在の小樽商科大学定期戦)応援を目的とする北海道帝国大学予科応援団が結成された。創設時は遊戯会予科応援団と同じく幹部役員並びにリーダーが有志であったのはもちろん、団員も予科生の有志であり、また団員と非団員の区別も判然とせず、応援団というには組織的にも精神的にも非常にラフなものであったようである。しかしながらその後、幹部役員の努力の末、数年の内に活動面、精神面、財政面などにおいて年を追うごとに拡充していき、急速な発展を遂げるのである。団員数も年々拡大し、大正13年度には全予科生904名中707名にも及ぶほどであった。
大正時代末期、世はバンカラ気風の最盛期とも言える時代であり、弊衣破帽、奇行蛮行を誇る気風が全予科的に存在していたようである。また、当時の応援団の幹部役員は正義感を持ち、屈する事を知らぬ、熱血漢溢れる人物が多く、握力計を握り潰したり、腕力にものをいわせてヤクザとのいざこざの仲裁に入るなどの種々の武勇伝も残っている。
バンカラ気風を誇る精神は今もなお応援団員に引き継がれている。 ○北海道帝国大学予科応援団の公式機関化と高商戦の全盛期(昭和2年〜昭和24年) 昭和2年、それまでの応援団幹部役員は単なる同好の士であったのに対し、応援団を全予科を基盤にしたものにするべく団則を設置し、公式機関化を図った。これにより、予科生は全員、「応援団員」とし、応援団長は立候補者の中から全予科生による選挙で選ばれたという。また、各クラスより応援団幹部や応援リーダーを選出して、応援の指揮などを任せ、より組織的且つ意気溢れる応援団を築いた。 このころは学生の中心的行事でもある高商戦応援が応援団活動の中心でもあったが、それ以外にも東京や京都へ遠征し応援に出向いたり、各部の練習場に顔を出して激励をしたり、合宿所に差し入れを持っていって励ますなど多岐に渡り精力的に活動をしていた。 北海道帝国大学予科応援団は国の戦争色が強くなると昭和15年を最後にして解散廃止されることになった。敗戦後、昭和21年に一度は予科応援団は復活したが、急には全てを復活できず色々苦心しているうちに学制改革のために予科は廃止されることになり、昭和24年を最後に北大予科応援団は解散となった。 ○北海道大学応援団発足(昭和26年〜昭和39
年)
新制「北海道大学」発足間もない昭和26年、旧制の「北大予科vs小樽高商定期戦」は新たに「北海道大学vs小樽商科大学」の定期戦として復活、これに伴って北海道大学応援団が発足した。この北海道大学応援団は初年度こそ全教養生によって応援団長を選挙したのだが、翌年からは選挙が行われず、予科時代に「全予科生=応援団員」としていた制度も有耶無耶となり、応援リーダーも全くの有志制となっていた。活動も年二回の商大戦のみであり、商大戦のための「臨時応援団」の域を脱していないのが現状であった。 昭和30年頃には、弊衣破帽に奇行蛮行を誇り、友情を重んじ、質実剛健の気風を持つ予科スピリットなるものは北大内において失われていった。それと時を同時にして応援団は当時バンカラ気質を好む者が多く残る北海道大学恵迪寮に専属化=同化するようになっていた。つまり、応援団の活動基盤を恵迪寮にのみ置き、実際の活動では恵迪寮行事に参加していく形で行われるに過ぎなくなってしまったのである。 昭和35年頃から現状打破を目指す改革論が論ぜられるようになり、昭和40年から始まる応援団改革に続いていくこととなる。 昭和37年には第49代団長阿竹氏の尽力の末、同氏が前年から提起していた 七大戦 の総合大会化を実現し、第一回七大戦を北大で行った。北大と全くカラーの違う応援団と親しく接する様になったことは北大応援団にとって一つの刺激となった。 ○応援団の改革(昭和40年〜昭和48年)
このころの時代ニなると六十年反安保闘争を一つの契機として、学生の気質が急激に変化していき、学生の中の応援団活動に対する興が徐々に冷めていったようである。これにより、応援団は何らかの自己改革を急務とせねばならなくなった。そういった背景の中、活動の強化のため二年制であった応援団を三年制とし、また、「運動部・体育会・一般学生間にスムーズな交流と関係が生じるように三者の仲介者的役割」を果たせる応援団の創出を目指し、体育会本部と協力し第一回学内運動会を開催するなどの活動を行った。 昭和40年10月、第五十四代応援団幹部が引退し、第五十五代応援団幹部が就任するや、ただちに応援団改革の議が決された。羽織・袴・高下駄・蓬髪に象徴される従来のバンカラ応援スタイルを一切廃止し、学ラン・白手袋・ブラス演奏で象徴されるスマートな応援スタイルを採ることとし、北大応援団にブラスバンド部を設置することを決めたのだ。この改革によって、応援団は酒を飲んで寮歌を歌ってストームばかりして暴れるものといったイメージの払拭、恵迪寮専属化概念の打破から全学応援団への転回、ブラスバンド応援との結合による応援効果の向上を狙った。また活動の全学化のために全道学生野球リーグ戦応援の学生動員など様々な計画が立てられた。引き続き全学的応援団を目指した第五十六代幹部は第五十五代幹部が持ち上がった四年生幹部であり、ここに北大応援団の四年制が確立した。一度、第六十代から三年制となったが第六十三代に再び四年制となった。四年制になることにより、活動の強化が図られた。 第五十七代幹部が就任するころには全学応援団を目指す方向性も定着し、新設のブラスバンド部も野球応援や七大戦等で活躍をしていたが、第五十八代幹部の時に音楽全般の研究を第一とする活動を行いたいという理由により応援団との分離がなされた。また、翌年、第五十九代幹部が就任すると、「和服スタイルこそ北大カラーである」という主張に加え、ブラスバンド部と分離したことも相まって、学生服姿から再び羽織・袴スタイルへの転向を決した。 また、全学的応援団への転回を決した応援団は、北海道大学の意気高揚を掲げ、様々な行事を企画した。中でも北大応援団の象徴的行事である第一回 北大寮歌祭は昭和42年11月、クラーク会館にて行われ、大盛況に幕を閉じた。これは古い歴史と伝統をもつ寮歌を広く長く存続させることに合わせて、北大生同士の交流の機会を成すために企画されたものであった。 この時代における「北海道大学の意気高揚」を掲げた全学的応援団精神は現応援団の礎ともなっている。
○現在の北大応援団へ(昭和49年〜)
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