■初代恵迪寮野幌森林公園内の開拓記念村に移築された物を撮影。黒百合会資料より。
■学生ホール●昭和48年撮影
■第2サークル会館(解放会館)
昭和40年頃から全国的に学生運動が激しくなり、大学事務局の向いに建っていた第2サークル会館は学生運動の拠点という性質を帯びてきた。サークル会館のあった正門付近は「解放区」と呼ばれており、これを受けてか、昭和43年頃より第2サークル会館は「解放会館」と呼称されるようになる。
昭和44年は東大紛争の影響などから、北大でも入学式の中止(4/10)、教養部で授業中止(5/23〜S45,1/4)、各学部でバリケードの設置やストライキなどが相次ぐなど、学内は混乱を極めていた。同年8月の大学臨時措置法(大学立法)の施行を受けて治安維持のために学内に機動隊が突入するようになり、事態は沈静化に向かう。
昭和46年には沖縄返還協定を巡って再び運動が盛んになった。6月には正門付近で闘争が起こり、機動隊のガス弾が解放会館に打ち込まれる等があった。6月20日、これらの騒動に関連して解放会館が家宅捜査を受ける事となる。
北大での学生運動は昭和46年末頃までくすぶり続けたが、47年には学内も落ち着きを取り戻した。
昭和49年12月26日にボヤ騒ぎ。翌50年3月30日深夜には、解放会館は不審火によって半焼してしまう。火元の部屋以外に大した被害はなく各サークルは火事の後もサークル会館を使用していたが、電気が止められてしまったために活動に支障を来していた。火事から半年以上も経過した昭和50年12月9日、第2サークル会館は撤去され、一つの時代が終る。
この後、各サークルはプレハブや第3サークル会館へと移転した。
昭和47年撮影、写真提供:黒百合会OB
■中央講堂撮影年度不明(〜S30?)、写真提供:工学部
■第1サークル会館(文連会館)
長らく学生の城となっていた第1サークル会館は、昭和54年4月30日に、漏電が原因とされる出火によって半焼した。学生達は焼け残った部屋を再分配して6月には活動を再開した。
大学側は新サークル会館建設の予算を文部省に申請し、火事から3カ月後の8月1日には早くも予算の目処が付いたとの報告があった。現在のサークル会館が学生達から「新サークル会館」と呼ばれるのは、この時期に第1・第3サークル会館との区別を付けるために「新」と形容されていたことの名残りであろう。つまり現在のサークル会館は、まさにこの第1サークル会館の火災を直接の原因として誕生したのである。
しかし、文部省の予算認可は、被災した第1サークル会館の撤去が前提条件であった。学生側は、新サークル会館建設の全容が不明であること、第1サークル会館取り壊しから新サ館建設までの活動の保証が無いことなどから、立ち退きを拒否して学生部と交渉を続けた。
この交渉は決裂し、同年8月8日、学生部長名による退去通告が出された。学生達は深夜まで対策を協議するが、翌9日、まだ中に人がいる状態で強制的に建物は撤去された。話によれば、この時は学外に機動隊が待機していたとの事である。
撮影年度不明(〜S30?)、写真提供:工学部
■第3サークル会館昭和50年頃撮影、黒百合会資料より
■クラーク会館平成14年撮影 黒百合会資料より
■新サークル会館余談になるが、教養食堂の2階ロビーに学生が居座るようになったのは、新サークル会館があまりに遠いためという事である。そのBOXも平成13年2月にサークルの占有が禁止されてしまい、学内サークルにとって厳しい状況が続いている。
平成10年撮影 黒百合会資料より。